わずか14歳でフランス王家に嫁いだマリー・アントワネット。以後、ヴェルサイユ宮殿の厳格な慣習や規則に縛られた日々は、退屈で息が詰まるものでした。そんなマリーが最も愛していたという離宮「プチ・トリアノン(Petit Trianon)」が宮殿の庭園内にあります。
「小さなウィーン」とも呼ばれた宮殿は、マリーが王妃という身分を忘れて、幼少期を過ごしたオーストリアでの暮らしのように自由と安らぎを取り戻せる場所だったのです。
ヴェルサイユ宮殿については下記のリンクよりご覧ください♪
→「ヴェルサイユ宮殿」豪華絢爛!栄華を極めたフランス絶対王政の象徴
ヴェルサイユ宮殿からトラムに乗ってプチ・トリアノンへ
プチ・トリアノンはヴェルサイユ宮殿から2kmぐらい離れた場所にあります。前回は広い庭園をゆっくり散策しながら歩いていきましたが、今回は母が一緒だったので、トラムに乗って行くことにしました。ブースで乗車チケットを購入します。
このトラムはヴェルサイユ宮殿を出発して、グラン・カナル、グラン・トリアノン、プチ・トリアノンを経由しながら循環していて、好きな場所で乗り降りすることができます。
今回はプチ・トリアノンをゆっくり見たかったので、時間の都合でグラン・トリアノンはトラムから写真撮影のみ。そのままプチ・トリアノンへ向かいました。
グラン・トリアノンは、1670年にルイ14世が中国風の小宮殿を建造して、その後、ヴェルサイユ宮殿の建築に携わったマンサールによって改築された宮殿です。以前、訪れましたが、こちらも贅を尽くした絶対王政を象徴するような宮殿内と美しいモザイクの柱廊が印象的でした(当時の写真)。時間があれば、ぜひ訪れたい宮殿です。
トラムがプチ・トリアノンに到着しました。訪れる人はあまり多くなくて、周辺は穏やかな空気が漂っています。まさに「プチ・トリアノン」という名前が相応う可憐なファザードは、絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿とはまた違った趣きがあります。
正門の横が入口です。
宮廷サロン文化の最盛期に栄えたロココ様式の最高峰
もともとプチ・トリアノンは、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の別邸として、建築家アンジュ=ジャック・ガブリエルの設計によって建てられたものでした。その後、ルイ16世からマリーに贈られたのです。プチ・トリアノンの内装は、宮廷のサロン文化の最盛期に栄えたロココ様式の最高峰とされています。
マリー・アントワネットとルイ16世の結婚生活
1774年、ルイ16世の即位とともに18歳の若さで王妃となったマリーは、その責任と立場を理解できず、夜になるとお気に入りの寵臣を従えてパリに出かけてはオペラ座で仮面舞踏会に遊び、賭博にも熱中しました。それでも2人の仲は決して悪くなかったと伝えられています。
2人の間に子どもが生まれないことを案じた母親マリア・テレジアは、1777年、マリーの長兄ヨーゼフ2世を遣わせます。夫妻それぞれの説得にあたらせ、ルイ16世は先天的性不能の治療を受けました。その甲斐もあって、翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子どもマリー・テレーズ・シャルロットが生まれます。その後、4人の子ども(長男と次女は夭折)に恵まれたマリーは、母としての喜びを感じていました。
ドレスや宝石を欲しいままに手に入れて、夜遊びや賭博にお金を注ぎ込んで、挙句に『赤字夫人』とも呼ばれて浪費家のイメージが強いマリーですが、子どもの誕生をきっかけに賭博もピッタリ止めるなど、良い母親であろうとしていたのです。
好きなものだけに囲まれた”マリーの館”
マリーはプチ・トリアノンを好きなものだけに囲まれた自分の世界に創り上げて、子どもたちを育てながら、お気に入りの寵臣たちとともに舞踏会やゲームを楽しみました。ここでのすべての権限はマリーにあったため、誰も許可なくして入ることはできず、国王であり夫でもあるルイ16世さえ、客人として扱われていたのです。
大階段の装飾欄干にある「M・A」のイニシャルのモノグラム。こうした細部に施された装飾からも”マリーの館”であることを感じます。
2階に上がると、マリーの有名な肖像画を見ることができます。女性画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランによって描かれた作品です。当時、多くの貴族の肖像画を描いて、画家としての才能を開花させていたヴィジェ=ルブランは、ヴェルサイユ宮殿に招かれました。マリーは完成した作品をとても喜んで、数年間に渡って作品の依頼をしました。マリーとヴィジェ=ルブランは王妃と画家を超えた友人関係を築いていたといわれています。
流行を生み出すファッションリーダーとしての存在
肖像画のマリーが手にしているのは「ロサ・セイティフォリア」。フランス語で「100枚の花びら」という意味を持つ花弁が豊かなオールドローズで、マリーはその香水も愛用していました。当時のヨーロッパ貴族は体臭を消すことを主な目的として、ムスクや動物系香料を混ぜた濃厚な香りの香水を使用していましたが、マリーはバラやスミレの花やハーブなどの軽やかで華やかな香りの香水を愛用し、やがて貴族たちの間でも流行するようになりました。
香水の流行も生み出すなど、マリーはヨーロッパのファッションリーダーでした。当時、華やかな盛り上がりをみせていたパリのファッション界では、貴族の女性たちは相手が驚くようなファッションを競い合い、マリーも最新の流行に夢中になりました。そこで、新進のデザイナー、ローズ・ベルタンを重用します。ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、ヨーロッパ諸国の上流階級の女性たちにも広まっていきました。
一方、即位後の数年間を過ぎると、公的な式典や儀式など必要な場合にしか正装をせず、シンプルでナチュラルなドレスや装飾品を好むようになります。プチ・トリアノンでは、コルセットを外して、高く結い上げられた髪もダウンスタイルにして、ゆったりしたドレスで過ごしたり、農婦の服装を楽しんだりしていました。この頃、ローズ・ベルタンはマリーのために袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザインしています。
プチ・トリアノンでは、煌びやかなドレスを着飾るより、締め付けのないナチュラルな素材のドレスを着て、宮殿の堅苦しい作法や王妃という身分から解放されて、ひとりの女性として自然体でいられたのでしょうね。
■大食堂(Dining Room)
1769年、この大食堂で初めて食事をしたのはルイ15世でした。ルイ15世は完全なプライベートな空間にしようと、キッチンのあるグランドフロアから食事が完璧に準備されたテーブルをそのまま持ち上げる仕掛けを作ろうとしましたが、未完成のままに終わってしまいました。
深紅のシルクのカーテンがかかり、シャンデリアも豪華です。壁に飾られている大きな4枚の絵画は、アドニスやフローラのような神話に登場する神やキャラクターが描かれていて、食事に関連する「狩猟」「収穫」「釣り」などをテーマとしています。
■お供の間(Grand Salon)
マリーが心許せる寵臣や貴族たちとダンスや音楽、ゲームを楽しんだプチトリアノンの中で最も大きい部屋。サロンに置いてあるいくつかの楽器は、特にハープを愛でていたというマリーの音楽への愛情を表しています。
この大きな部屋を明るく照らすランタンは、1784年、ルイ15世が選んだシャンデリアを取り替えるようにマリーが命じたもの。金メッキされた青銅製で青色のラピスで飾られています。
■内殿(Queen’s Boudoir)
もともとルイ15世のプライベートルームとして使用されていた部屋。マリーがプチ・トリアノンを贈られたとき、さらに特別なプライベート空間にしようと、フロアから引き上げられて、窓を覆うことができる可動式の2つの大きな鏡を設置しました。完全にプライバシーが守られたこの部屋で、マリーは安らぎを感じていたのかもしれません。
マリーといえば、可愛らしいピンク系のイメージもありますが、薄いブルーもとってもマリーらしいような気がします。プチ・トリアノンの数々の部屋を見た中で、この内殿の優しい色合いが一番好きでした。
■王妃の寝室(Queen’s Bedchamber)
ルイ15世の公妾だったデュ・バリー夫人が寝室として使用していた部屋でしたが、引き継いだマリーは家具を新調して、この部屋を改装しました。刺繍された小花柄と柔らかい色合いの家具が素敵です。寝室の窓からは、庭園にある「愛の神殿」を眺めることができます。
■台所(Warming Kitchen)
当時、多くの宮殿では王族たちの食事を宮殿内で作ることはありませんでした。このプチ・トリアノンでも同じように、キッチンで温められた食事が滞在している王族や貴族たちにサーブされていました。特にポンパドゥール夫人は通常のキッチンに出てくるような臭いや雑音を嫌っていたので、この建築部分を変えたくなかったと言われています。キッチンの中央に置かれた大きな木製のテーブルは、マリーがヴェルサイユ宮殿の豪華さから逃れて、田舎風のシンプルなものを好んでいたという典型的な一例です。
花柄の食器も魅力的。『ロココの女王』と呼ばれたマリーのセンスが光ります。
■王妃の村里(Le Hameau)
ヴェルサイユ宮殿のような幾何学的なフランス式庭園を好まなかったマリーは、プチ・トリアノンでは自然の景観美を基調としたイギリス式庭園をつくりました。そして、さらなる田園風景を求めて、庭園の奥地に大きな湖をつくり、湖畔には「水車小屋」や「王妃の家」など次々に建て、牛や馬、羊やヤギなどを牧場で飼育し、「王妃の村里(Le Hameau)」と呼ばれる小さな農村を完成させました。マリーは田舎らしい質素な生活を楽しみましたが、あくまでも人工的につくられた農村には、多大な費用が注ぎ込まれていたのです。
■愛の神殿(Le Temple de l’amour)
プチ・トリアノンのシンボルのように庭園に建てられた大理石の「愛の神殿(Le Temple de l’amour)」。ここでマリーは愛人のスウェーデンの貴族アクセル・フォン・フェルセン伯爵と密会していたと伝えられています。
マリーとフェルセン伯爵はフランス革命勃発後も、暗号を使うなどしながら手紙を交わしていました。中には黒く塗りつぶされているものもあり、その解読が試みられてきましたが、2016年1月、フランス国立図書館が「2人の秘密が明らかに」と新たな研究成果を大きく伝えたのです。日本で開催された『マリー・アントワネット展』(2016/10/25〜2017/2/26)では、2人が使った暗号表の実物とマリーからフェルセンへの墨塗りの手紙の複製が展示され、手紙の墨塗りの下から浮かび上がった文字を紹介しました。
「あなたを狂おしいほど愛しています。一瞬たりともあなたを敬愛することをやめられません」《マリー・アントワネットからフェルセンへの手紙─1792年1月4日》
時代を超えて世界中の人々を魅了するマリー・アントワネット
ソフィア・コッポラ監督の映画『マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)』では、フランス王家に嫁いでから、夫のルイ16世と向き合おうとしても関心を示してもらうことができず、ついにマリーが泣き崩れたのち、吹っ切れたようにドレスや宝飾品を仕立てて、パリの仮面舞踏会に出かけていくシーンがとても印象的でした。そして、王妃に即位して初めての誕生日パーティで夜どおし騒いで迎えた朝、ひとりバスタブに佇むマリーは孤独そのもので、王妃という立場と自らの心をなんとか繋ぎ止めようとする姿に、胸が苦しくなりました。
国のために家族と故郷から離れ、生活様式の何もかもが変化した中で『オーストリア女』と陰口を叩かれながら、お世継ぎ問題に煽り立てられて、確かに贅を尽くした生活をしていたけれど、マリーは決して自由ではありませんでした。もともとフランスはルイ16世が即位する前から宮殿の建設やアメリカ独立戦争への支援など経済恐慌の渦中にありましたが、民衆の不満の高まりとともに王妃の浪費が槍玉にあげられ、ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではマリーへの中傷が過激化していき、フランス中で憎悪の対象とされていったのです。
フランス革命が勃発したとき、それまで国民が経済的、物質的な貧困に急迫されているリアルな状況を知る機会があったのでしょうか。実際にマリーは宮殿内で基金を立ち上げ、貧しい人々を支援するなど慈悲深い人でした。ヴェルサイユ宮殿に民衆が押し寄せたとき、マリーは王家と子どもたちを守るために毅然とバルコニーに立ち、深々とお辞儀をすると、その凛とした美しさと気高さに民衆は心打たれ、歓声があがったと言われています。
1793年10月15日、革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場の断頭台で刑が執行されました。享年37歳。
ひとりの女性として純粋に、母として愛情深く、人として強く生きたマリー・アントワネット。革命の渦に飲み込まれた悲劇のヒロインというだけでなく、こうした様々な側面を持ち合わせた姿が、時代を超えて世界中の人々を魅了しているのではないでしょうか。ヴェルサイユを訪れたら、宮殿や庭園、離宮を散策しながら、そんなマリーの魅力に触れてみてください。
・The Petit Trianon(オフィシャルサイト)
・「ヴェルサイユ宮殿」豪華絢爛!栄華を極めたフランス絶対王政の象徴