「モン・サン=ミッシェル」圧倒される神秘的な美しさと激動の歴史

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フランス西海岸、サン・マロ湾に浮かぶ小島に聳える美しい修道院「モン・サン=ミッシェル(Mont-Saint-Michel)」。カトリックの巡礼地であり、その圧倒されるような神秘的な存在は、”西洋の驚異”とも称されています。

このフランスを代表する歴史的文化遺産は「モン・サン=ミッシェルとその湾(Mont-Saint-Michel and its Bay)」として、また「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(Routes of Santiago de Compostela in France)」の一部として、ユネスコの世界遺産に登録されて、世界各国から年間300万人もの観光客や巡礼者が訪れます。
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モン・サン=ミッシェルが浮かぶサン・マロ湾は、潮の満ち引きの差が15メートル以上というヨーロッパで最も干満の差が激しい場所です。訪れたときは干潮でしたが、満潮時には陸と切り離された孤島になります。

かつての巡礼者たちは、干潟を歩いてモン・サン=ミッシェルへ渡りましたが、満潮時になると急激に押し寄せてくる潮に溺れて、多くの人々が命を落としたと言われています。

1849年、陸と繋がる堤防道路が築かれましたが、それはモン・サン=ミッシェル周辺の自然を破壊することとなりました。周囲に土砂がたまり、完全に陸地化しそうになったのです。かつての「島」の姿に戻すために、堤防を撤去して、潮の流れを止めないように現在の脚付きの橋が建設されました。


さて、修道院へと向かいましょう!王の門から修道院へと続く「グランド・リュ(Grand Rue)」を歩いていきます。「大通り」という意味の参道ですが、道幅はとても狭く、両脇にはレストランやカフェ、可愛らしいショップが並んでいます。修道院を訪れたあとは、王の門の手前にあるレストラン「ラ・メール・プラール」で、モン・サン=ミッシェル名物のふわふわオムレツをいただきました♪

高台にある修道院を目指して、どんどん上っていきますが、なかなかその姿を見ることはできません。モン・サン=ミッシェル全体は迷路のようにたくさんの小道があるので、好きな道を選びながら、ふぅ〜っとひと息ついたところで振り返ってみると干潟が眺められました。

ようやく修道院の入口に到着!チケットを購入しました。大人料金9ユーロです。

修道院内も広い造りなので、かなり歩きます。まずは大階段から。旅は体力&足腰が大事!

天に昇るように修道院の尖塔に聳えているのは、黄金の大天使ミカエル像。高さ4.2m、銅製で金箔が施されたものです。実は、この大天使ミカエル像は、この地域は雷が多いので、避雷針としての役割も果たしているのです。雷だけではなく、砂まじりの海風などが影響して傷みやすく、過去に2度修復されてきましたが、2016年に3度目の修復が行われました。

モン・サン=ミッシェルの長い歴史は、708年、司教オベールが夢に現れた大天使ミカエルに岩山に礼拝堂を建てるようにお告げを受けたこと始まります。そして、司教が建てた聖堂が「モン・サン=ミシェル」、つまり「聖ミカエルの山」です。

その後、10世紀にベネディクト会の修道院が設立、増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在の形となりました。13世紀から16世紀にかけては、当時の最高の教会建築を結集して改修されていきます。そのため、修道院内部は中世の様々な建築方式で構成されています。

例えば、教会堂の身廊は11〜12世紀のロマネスク様式、百年戦争で破壊された内陣は15~16世紀のゴシック後期のフランボワイアン様式で再建されました。

修道院の見どころのひとつ、3層構造の居住空間「ラ・メルヴェイユ(驚異)」。その最上階に美しい回廊と中庭があります。その回廊は「神の空間」とされて、修道士たちはこの回廊を瞑想しながら歩いたといいます。

2重になっている柱は、瞑想するのに理想的な光を演出しているのだそうです。

回廊と同じくラ・メルヴェイユの上層階にある大食堂。修道士にとっては食事も儀式として位置づけられていたので、食堂内には説教壇があり、食事中にも説教を受けました。

大食堂の下にあたるラ・メルヴェイユの中間層には、王や貴族の巡礼者を迎えるために使われた「迎賓の間」があります。柱から高い天井へアーチを描く美しい曲線は、ゴシック建築における空間の特徴「リブ・ヴォールト」という建築様式です。

迎賓の間を抜けて、外に出て建物を見上げてみると、こちらもゴシック建築の教会の特徴でもあるガーゴイルの姿がありました。

再び建物内へ入ると「太柱の礼拝堂」があります。驚くのは、まさにその柱の太さ。長い年月をかけて修道院付属教会の建物が増築されたため、聖堂の内陣を支えることを意図としてつくられた礼拝堂です。全体的に仄暗い礼拝堂ですが、窓から射す光が優しく、黒い聖母像が静穏に佇んでいて、どこか神聖さを感じます。

続いて「マルティヌス礼拝堂」へ。壁がとても厚く、窓が小さい暗いシンプルな空間です。

修道僧の納骨堂には大きな車輪があります。フランス革命後、修道院は監獄として使用され、司祭や反体制派の多くの人たちが囚人として投獄されました。そこで、囚人たちの食料や日用品などを引き上げるために滑車を設置して、囚人たちが車輪の中に入って労働させられていました。現在の車輪は19世紀に復元されたものです。

納骨堂の奥、かつて病院があった場所に併設された「サンテティエンヌ礼拝堂」。遺体安置所として使われていたこの空間には、ピエタ像(十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリア)がありました。死者たちを嘆き見守っているかのようです。

再び階段を上ります。修道院内は短い階段や長い階段がところどころに点在する入り組んだ構造になっていて、増築が繰り返されてきたことを体感します。

「修道僧の遊歩道」は、13世紀に回廊が建造される以前、この空間を回廊として修道士たちが時間を過ごしていたのではいかと推測されています。

修道僧の遊歩道の脇で見られた露出した岩山の一部。かつて、岩にはパワーがあるという伝説があり、古代から聖なる場所として信仰されてきた岩山にモン・サン=ミッシェルはつくられました。モン・サン=ミッシェルの原点、それは聖なる岩。子どもたちにとっては楽しい遊び場となっていました。

「騎士の間」に到着しました。修道士たちが写本や日々の執務に励んでいたという場所で、高い天井とたくさんの窓から光が取り込まれた明るく美しい空間です。この騎士の間を最後に、修道院内の見学は終了となります。

ちらりとショップに立ち寄りながら、そこを抜けて修道院の外へ。

海に面した場所に築かれた城壁には大砲を見ることができます。フランスの国民的ヒロイン、ジャンヌ・ダルクが台頭した百年戦争(1337-1453年)において、英仏の海峡に位置するモン・サン=ミッシェルは、対英軍の城塞として利用されました。
ヨーロッパで最も激しいという干満の差が助けとなって、敵は船で近づくことができず、モン・サン=ミッシェルは一度も落城したことがない難攻不落の砦となったのです。

708年、大天使ミカエルのお告げによって、その長い物語が始まったモン・サン=ミッシェル。激動の歴史に翻弄され、百年戦争では要塞としての役割を担い、18世紀のフランス革命後には「海のバスティーユ」と恐れられる監獄として使用されてきました。

その後、19世紀になると、文豪ヴィクトル・ユゴーらがその美しさを称えたことをきっかけに、モン・サン=ミッシェルは再び脚光を浴びます。ちなみに、北側の建物の呼称「ラ・メルヴェイユ(驚異)」は、ユゴーが賞賛した言葉です。

1874年、フランスの歴史的建造物に指定されると、大がかりな修復工事が始められ、再びモン・サン=ミッシェルが修道院として再開したのは、1966年のことでした。1979年にはヴェルサイユ宮殿などと並んでフランス初のユネスコ世界遺産として登録されました。

ずっと憧れていたモン・サン=ミッシェル。実際に訪れてみると、ただ美しいだけではなく、長い歴史とともに歩んできた強さ、憂いや淋しさ、優しさを感じることができました。そうしたものすべてが大きなパワーとなって、カトリックの巡礼地として、今も巡礼者たちの心に寄り添っているように思います。


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【La Mère Poulard】ラ・メール・プラール伝統のふわふわオムレツ(Mont-Saint-Michel/モン・サン=ミッシェル)
Site officiel de l’office de tourisme du mont saint michel(オフィシャルサイト)

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