バガン遺跡「ミンガラゼディ・パゴダ」パガン王朝最後の仏塔

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13世紀後半、クビライ率いる元の軍隊がパガンを侵略する前に、第11代国王ナラティーハパテ(Narathihapati)により建立された「ミンガラゼディ・パゴダ(Mingalazedi Pagoda)」(建立年は1277年、1284年と2説あり)。パガン王朝最後の大きな仏塔です。IMG_2960

パガン王朝前期には、ビルマのモン、インドやスリランカから影響を受けた寺院が建立し、中期には、独特のマルチ階構造の建築が誕生、そののち、この王朝末期に建築されたミンガラゼディ・パゴダは、建築者の技術の頂点であるとともに、発展を遂げてきたバガン建築の終焉となります。

高さ約40メートル、対称の構造を持ったレンガ建築で、3層の方形の基壇の上に紡錘形の塔が立っています。東西南北のすべての側面の中央には、テラスに通じている階段があります。

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テラスには、仏陀の生前に纏わる547の物語を伝える「ジャータカ物語」(仏教でいう前世の物語、古代インドの仏教説話集のようなもの)を描写したテラコッタの飾り板がありますが、残念ながら、現在はかなり風化していて、完全な状態ではないそうです。

頂上部のテラスへの階段は、塔の悪化を防止するために閉じられていますが、現在も上ることができるテラスからの眺めは、とても素晴らしかったです。

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最後に、元軍の侵攻からパガン王朝滅亡まで。

1277年、元軍はパガン侵攻を開始しました。当初、ナラティーハパテは元に対して従順しませんでしたが、1287年のパガンの戦いで、ナラティーハパテは南ビルマに逃亡します。ついにパガンは陥落し、軍撤退の条件として元への朝貢を承諾しました。(パガン王朝は、ナラティーハパテが元に降伏した1287年をもって事実上滅亡したとされています。)

パガンへの帰還の途上でナラティーハパテは毒殺され、ナラティーハパテの子チョウスワーが即位しました。チョウスワーは元に朝貢を行って王位を認められますが、ミンザイン王国に軍を有していたシャン族の3兄弟のひとりアサンカヤーも独自に元に使節を送り、支配権を認められていました。1299年頃、シャン族の3兄弟とナラティーハパテの妃ソウの共謀でチョウスワーは廃位され、その子ソウニッが王に擁立されます。

1301年、再び元軍がビルマに侵入しますが、アサンカヤーは防衛に成功し、その勝利は碑文の記録でも称賛されています。ソウニッは実権のない名目だけの王となり、1314年にパガン王家に代々伝わる金帯と金盆が3兄弟のひとりティハトゥに送られたことで、パガン王朝は名実共に滅亡しました。そして、1369年、ソウニッの子ウザナ二世が没したとき、パガン王家の男子継承者も断絶したのです。

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パガン王朝最後の仏塔になってしまったことに寂しさを感じつつも、このミンガラゼディ・パゴダを訪れたとき、どこか威風堂々として凛とした印象を受けたのでした。

Mingalazedi Pagoda(Wikipedia)

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