アイルランドで最も大きい大聖堂「聖パトリック大聖堂(Saint Patrick’s Cathedral)」。創設は1191年、正式名称は「聖パトリックの国立大聖堂およびカレッジチャーチ (The National Cathedral and Collegiate Church of Saint Patrick, Dublin)」。14世紀初めから16世紀初めまでは、アイルランドで最初の大学としても利用されました。
聖パトリック大聖堂は、ダブリンの中心地からギネスストアに向かう途中で見た「クライストチャーチ大聖堂(Christ Church Cathedral)」とともに国教会とされています。2つの教会間は約500メートルという近い位置関係にあります。
このように1つの教区に2つの大聖堂にあるのは稀なことで、聖パトリックの設立以来、数十年にわたってクライストチャーチとの対立状態が継続しました。その後、1300年に2つの大聖堂をすみわけるための「構成法(Pacis Compostio)」という協定が取り決められたことによって、一応の解決となったのです。
激動の歴史とともにあった聖パトリック教会。16世紀にはヘンリー8世の宗教改革によって、教会の財産が没収されて、聖書はイングランド国教会の祈祷書に取って変わりました。また、ヘンリー8世の側近だったトマス・クロムウェルが率いた兵士によって、大聖堂に収められていた像は傷つけられてしまいました。
17世紀になると、トマス・クロムウェルの玄孫にあたり、清教徒革命の指導者だったオリバー・クロムウェルがアイルランドを侵攻します。そのとき、クロムウェルは聖公会に対する軽蔑のデモンストレーションとして、馬を大聖堂の身廊に入れて馬小屋代わりにしました。
1660年の王政復古では清教徒革命が失敗に終わって、アイルランドが王政に復すると、大聖堂の修復が始められました。1688年、ウィリアマイト戦争が起きたことで、およそ150年ぶりに大聖堂はカトリック教徒たちの手に戻りましたが、プロテスタントであるウィリアマイトが戦争に勝利したため、わずか2年で再び聖公会のものとなったのでした。
アイルランドの激動の歴史とともに歩んできた聖パトリッック大聖堂ですが、歴代司祭の中には「ガリバー旅行記」の作者として有名なジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)がいます。1713年から1745年まで大聖堂の首席司祭でした。大聖堂内には、スウィフトの胸像や自筆の本などが紹介されています。
1860年から1865年にかけて、悲惨な経済状況の中で老朽化していた大聖堂は、ギネスの三代目ベンジャミン・ギネスの出資によって、大規模な修復が行われました。ギネス一族の大聖堂へのサポートはベンジャミンのみではなく、初代アーサー・ギネスや4代目のエドワードも大聖堂への寄付や修復を行ったことが記述として残っています。
1871年にアイルランド国教が廃止されると、クライストチャーチ大聖堂はダブリンおよびグレンダーロッホ主教区の大聖堂として、聖パトリック大聖堂は国立大聖堂として指定されました。ようやく2つの大聖堂の立場が明確となって、現在に至ります。
外光の照らされ方によって異なる輝きを放つステンドグラスには、聖書などの物語が語られています。繊細な技術が集結した美しい色合いのステンドグラスは、いつまでも眺めていられるようでした。
逆境の歴史とともに歩んできた聖パトリック大聖堂。現在は国立大聖堂として、毎年11月に大統領も出席するアイルランドの英霊記念日式典が執り行われるなど、いくつかの公式の国家行事が催される場所となっています。
私自身は無宗教ですが、キリスト教の幼稚園に通っていた影響もあって、子どもの頃から教会を訪れることがとても大好きでした。神聖で凛とした空気に包まれると、自己を省みて、涙が溢れるような心地になります。今回の旅でも世界各国でたくさんの教会を訪れました。
アイルランドで最も大きい大聖堂というだけあって、近いアングルからは写真に収まりませんでしたね…。内装も外観もとても壮大な大聖堂でした。
・Saint Patrick’s Cathedral(オフィシャルサイト)