[my note] 女だってつらいのよ

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《AM9:30》
連泊していたホステルのカウンターでチェックアウトを終えると、後ろで待っていた男性に気づく。
「Good morning.」
軽い挨拶をして、ドアを開けた。清々しい朝の空気の中、わずか3日の間に何度も歩いた道がすでに懐かしく、身体に馴染んできた大きなバックパックを転がしながら、次に宿泊するホステルへ向かった。ダブリンの滞在を一日延長することにしたものの、宿泊していたホステルには空きがなく、移動することを余儀なくされたのだ。
歩き始めて数分、横に並んだ男性から声をかけられる。つい先ほど、ホステルで軽く挨拶を交わした男性だ。重たいバックパックを転がすときは自分のペースで歩きたいこともあって、正直、面倒臭い気持ちもあったけれど、これがいわゆる”旅の出会い”だと言い聞かせて、彼からの質問に愛想よく答えた。礼儀として彼にも同じような質問をしながら、どこまで一緒に歩いていくんだろうと内心で別れるタイミングを計っていた。
「もしよければ、朝食を一緒にどうかな?」
少しばかりの面倒臭さを引きずっていたけれど、初対面ながら彼に漂う心地よい空気に、適当な曲がり角で別れるはずだった旅の出会いは、延長戦に突入することになった。

《AM9:45》
ダブリン市街の中心を流れるリフィー川沿いのカフェに入って、大きなバックパックを置けるスペースを確保する。移動中に食事をするとき、電車やバスに乗るときには、まず最初に必要なタスクとなっていた。
「いつもこんな感じで大変なのよ。」
彼に笑いかけながら、ようやく席に落ち着くと、店のドアを開けたときからバックパックの置き場を心配そうに眺めていたウェイトレスからメニューを手渡される。さりげなく互いに選ぶメニューを気にしながらウェイトレスにオーダーを伝えると、早速、質疑応答が再開された。彼は道端で僅かな会話を交わしたときから、私が仕事を辞めて、一人旅をしていることに興味を持っていた。前職はどういう仕事だったのか、何年勤めたのか、どうして辞めたのか、間髪入れずに彼からの質問が飛んでくる。さらに、その質問は学生時代にまで遡った。
「大学では何を専攻していたの?」
「哲学よ。」
「本当に?僕もだよ。」
日本ではどちらかというとマイナーな学科で、哲学を専攻をしていた人になかなか出会うことがなかったので、思わぬ彼との共通点を見つけて、距離が近づいたようだった。さらに、彼は博士号を取得している”ホンモノ”だったので、一癖ある人物ではないかと勘ぐりながら、哲学のおかげで弾んだ会話を続けた。
「もう一度、哲学の勉強をはじめたいと思っているんだ。」
突然、彼が真剣な口調で、そのあとは照れたように話を続けた。
「今の仕事に不満はないし、仕事の環境も恵まれている。でも、本当にやりたいことを考えたとき、このまま同じ仕事を続けていいのか悩んでいるんだ。君が仕事を辞めて、旅をしていると聞いて、素晴らしい出会いだと思ったよ。その決断はとても勇気あるものだから。」
かつての私もそうだったように、今ある日常から逸脱することの不安は誰にだって当然ある。目の前にいる一癖あるだろうと思った人物は、もしかしたら私よりも人として正常に機能しているのかもしれない。
質疑応答から始まった二人の会話が、すっかり人生論になったところで、香りよい食後のコーヒーをいただいた。
「僕が誘った朝食だから。君と話ができて良かった。」
そろそろ会計をと提案したところで、穏やかな笑顔にすっかりご馳走になってしまった。
「このあとは予定は決まっているの?」
「アイリッシュウイスキーミュージアムに行くつもり。」
カフェをあとにして間もなく、ふいに発せられた彼からの言葉に、その後の展開を予測しようともせず、咄嗟に答えていた。

《PM11:50》
チェックイン時間の前だったので、ホステルに大きなバックパックを預かってもらうと、ダブリン大学トリニティカレッジを訪れた。観光名所でありながら、正門をくぐると、懐かしいキャンパスの匂いが漂う。

カレッジの学生が構内を案内してくれるキャンパスツアーを横目に、自分の足で見て回ることにした。トリニティカレッジには、アイルランドの国宝で”世界で最も美しい本”とも呼ばれている「ケルズの書」が貯蔵されている。どんなものか一目見てみようと訪れたものの、図書館の前には同じ目的で訪れた観光客が長蛇の列をつくっていた。ここに並んでいたら、待ち合わせ時間に間に合わない。世界で最も美しい本が貯蔵されているであろう建物を外観から眺めながら、ホステルへと急いで戻った。

《PM1:00》
待ち合わせ時間に彼の姿はなかった。実のところ、来ても来なくてもどちらでも良かった。ふと周辺の景色を撮影したくなって、ホステルが視界に入る範囲でカメラを片手に歩いてみる。ファインダーから覗く”アイルランドっぽい”景色は、旅人としての私を満たしてくれた。

10分ぐらい経過したところで、ホステル前に戻ろうと信号待ちをしていると、遠くから走って近づいてくる彼の姿が見えた。お互いがホステル前に足を止めると、彼は息を上がらせながら、遅れてきた理由を話した。
「ごめん。本屋を探しながら歩いていたら、だいぶ遠回りしてしまったんだ。」
「大丈夫。気にしないで。」
心の中で「やっぱり一癖あるな 」と呟いた。
つい数分前まで訪れていたトリニティカレッジを横切りながら、そのことについては特に触れず、簡単な会話をしながら、アイリッシュウイスキーミュージアムへと歩いた。彼の方から一緒に行きたいと申し出があったものの、自分の趣味に付き合わせて申し訳ない感情も芽生えながら、ミュージアムのガイドツアーに参加する。表情から読み取ろうと彼に何度か目をやると、彼なりに楽しんでいるような素振りが見えて、少しばかり安堵した。ガイドツアー最後のアトラクションとなるウイスキーのテイスティングまで終わると、アルコールの力も加勢して、だいぶ打ち解けていた。ウイスキーの話からも逸れて、互いに好きなことを語り合い、アイリッシュウイスキーミュージアムをあとにした2人は、自然と肩を並べて同じ方向へ歩きはじめた。

《PM3:30》
聖パトリック大聖堂に到着した。教会が好きという2つ目の共通点を見つけて、敷地内の公園を歩く。穏やかな昼下がりを演出する僅かに傾き始めた太陽が、数時間前に出会った男性と一緒にいることを不思議に感じながらも、「まぁいいか」という気にさせてくれた。

大聖堂の中には様々な展示物があり、互いに好き勝手なペースで鑑賞する距離感が心地良く、この日、2度目の安堵が訪れた。ときに顔を見合わせるものの、そこに恋心のようなものはなく、時間配分への配慮でしかなかった。

《PM4:20》
大聖堂を出たところで、もはや私からサヨナラを告げるタイミングを計ることはできなくなっていた。相手の出方に任せようとしたところで、彼の笑顔が私の顔を覗き込んだ。
「少しお腹が空いたけど、君はどう?」
「あまりお腹は空いていないけど、少し休憩をしたいと思っていたところ。」
また一つ、イベントが始まるのかと思いながら、軽食がとれそうなカフェに入る。彼がハムとチーズが挟まれたパニーニとミネラルウォーターを、私はホットコーヒーをオーダーした。こんな私でも僅かに持ち合わせている大人としての礼儀が、冷たいアルコールを温かいカフェインに変えた。

《PM5:15》
数時間に渡ってかつてないほど必死な英会話を続けているので、頭が少しクラクラする。カフェを出ると、大通りを抜ける冷たい風が熱を上げた脳みそを冷やしてくれた。しばらく2人で川沿いを歩いて、遊歩道の終わりに辿り着くと、今度は私から彼に言葉をかけた。
「これからどうする?」
「もう少し歩いていたい。疲れてない?」
「大丈夫よ。川の向こう側へ渡ってみる?」
「いいね。」
橋を渡って対岸の遊歩道を歩いた。ときに会話をしながら、ときに言葉を必要としない時間が流れる。英単語がフル回転していた脳みそが休まる時間でもあったけれど、それ以上にただ歩いているだけで心地良く、悠々とした川の流れを眺めていた。
「『Before Sunrise』を知ってる?」
突然の彼からの質問に、瞬時に頭を巡らせると、かつて好きだった映画『恋人までの距離(ディスタンス)』の原題であることを思い出した。
「知ってる。とても好きだった映画。」
「僕もだよ。今日はそんな素晴らしい日を過ごせているよ。」
ヨーロッパの長距離列車の中で、アメリカ人学生(イーサン・ホーク)と、フランス人女学生セリーヌ(ジュリー・デルピー)が出会い、意気投合した2人は、翌朝までウィーンの街を歩いて回るというストーリーだった。もちろん映画の内容も好きだったけれど、映画を観たきっかけは主演のイーサン・ホークが好きだったからだ。憧れのイーサン・ホークとはどうしても重ならない…そんな意地悪な思考も過ぎりながら、そんな映画みたいなことが現実に起こるものなんだと思ったことも事実だった。

《PM6:30》
もう別れを切り出すことさえ気にならなくなり、このままディナーまで一緒に過ごすことになったので、一度、ホステルに戻って、チェックインの手続きをした。
「ちょっと荷物を運んであげて。」
カウンターにいた女性が、近くで待っていた彼を動員する。重たいバックパックを持ち上げて、3階の部屋まで階段で上っていかなくてはならなかったのだ。彼はバックパックを持って階段を上ってくれ、部屋の前まで運んでくれた。
「ありがとう。腕は壊れていない?」
「問題ないよ。でも、信じられないぐらい重たいバッグだね。」
彼は笑って返してくれた。

《PM7:15》
何度もひとりで気楽に訪れていたテンプルバーを少しの照れ臭さを持ち合わせて男性と歩いていることが滑稽で、可笑しかった。
「この辺りのお店に入る?」
「もう少し歩いてみよう。」
多くのアイリッシュバーが軒を連ねる中、飲めるならどこでもいいんじゃないかという私の適当さとは対照的に、彼にはこだわりがあるようで、お店選びは慎重だった。一日中歩き回っていた足は少し疲れていたけれど、2人で過ごすための場所、もしそんな風に思ってくれているのだとしたら、そうした彼のこだわりは嬉しいものだった。

《PM8:00》
朝から万歩計を付けていたなら、どれだけの歩数を示しただろう。彼のこだわりに合致するお店がなかったテンブルバーを抜けると、ポツポツと雨が降り出してきた。恵みの雨だ。足取り早く、近くにあったBARに入る。オーダーしたビールを手にすると、2人が出会えたことに、雨を凌げたことに、ようやく座れたことに乾杯した。店内の程よい雑音とキャンドルの光がそれらしい雰囲気を作り出し、真正面に座った2人の間に今までになかった恥ずかしさとぎこちなさが漂うと、彼はゆっくりした口調で喋りはじめた。
「川沿いを一緒に歩いていたときに思ったんだ。言葉を必要としない、何も話さなくてもいい時間を過ごせる人は貴重だね。」
英語から日本語に翻訳して間もなく、彼の言葉に共感した。もっと若い頃は、沈黙が怖かった。自分の緊張や恥じらいを悟られないように、過剰に言葉を重ねてしまうこともあれば、興味もない質問を投げかけて、相手の本質と向き合おうとしていなかった。していなかったのではなく、できなかった。大人の余裕なんてものに縁なくドタバタと生きてきてしまったようだけれど、沈黙に安穏を感じられる相手を探せるぐらいには成長できたのかもしれない。

《PM10:10》
雨を凌ぐために入ったBARではビールを2杯ずつ飲んだだけだったので、雨が止んだ頃、店を出て再びダブリンの街を歩いた。カジュアルなアメリカンダイナーに入ると、彼はハンバーガーを食べて、私はサラダを食べた。彼と出会った朝から半日が過ぎて、空腹の感覚と時間の感覚は緩やかに麻痺していたけれど、夜10:00を過ぎてからハンバーガーを食べることの恐ろしさはしっかり認識していた。
先にお腹に入れたアルコールのおかげで、脳みそのフル回転は停止して、思考回路の前列に並ぶ程度の英単語を繋げて、なんとか会話を成立させていた。
「君の英語は上手だよ。」
出会ったときから、拙い英語で会話をしようとする私にそう言ってくれて、その度に彼の優しさがじんわりと心に沁みた。

《PM11:30》
通り沿いに点々と浮かぶ橙色の街灯に先導されて、ホステルまでの道のりをゆっくり歩く。
「ありがとう。今朝、君に声をかけて良かった。素晴らしい一日だったよ。」
「こちらこそ、ありがとう。本当は今朝、ダブリンを出発する予定だったの。でも、出発を明日にしたから、あなたと過ごせたのね。」
これが最後の会話になることを予感すると、どちらからともなく2人は手を繋いだ。20代そこそこであれば、突如として訪れた異国でのロマンチックな出会いに運命などを感じて高揚したかもしれないけれど、すっかり理性が感情をコントロールできる年齢になっていた。
「僕たちはまた会えるかな。」
「本当に会いたいなら、会えると思う。ただ行動が必要なだけ。」
「その通りだね。」

《AM0:00》
日付が変わる頃、2人は別れた。
太陽が昇ると目が覚め、身体を動かして、何度かの食事をしながら、ときにアルコールを摂取して、目を閉じて眠りにつく。人間の欲望を満たしながら、繰り返し続ける毎日に特別な日なんてない。今日だってそう。目が覚めて少し身体を動かしたところで、偶々彼と出会い、何度かの食事をして、ビールで乾杯して、真夜中を迎えたダブリンの街で彼と別れた。そして、またいつものように一人で眠り、太陽が昇ると目を覚ますのだ。

*あとがき*
小説っぽくしてみようと書き始めたものの、そういえば小説なんて書いたこともないし、恋愛小説もあまり読まないので、かなり苦戦しました…。 文才の無さに我ながら残念でありましたが、処女作誕生。これもいい経験です。

さて、独身女の一人旅、しかも長期間となると、必ず聞かれるのが「いい出会いはなかったの?」ということ。いい出会いというのは、つまり素敵な男性との出会いになるわけですが、このダブリンでの出来事ように心に残るいくつかの出会いがありました。でも、フーテンの寅さんがひとつの場所で落ち着いて愛を育む姿が想像できないように、流離いのような私の一人旅もまた、次なる場所へと向かわせたのでした。車窓に流れる景色を眺めながら、一期一会を胸に刻んで、ちょっぴり切なくなってみたり…。

「寂しさなんてのはなぁ、歩いているうちに風が吹き飛ばしてくれらぁ。」
第44作「男はつらいよ 寅次郎の告白」

旅なんてそんなものよ。

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